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宮崎地方裁判所 昭和54年(わ)180号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

被告人から金三〇〇〇万円を追徴する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和三四年四月から同五四年六月まで宮崎県知事の地位にあり、同県を統轄し、所属職員を指揮して、予算の調製・執行、公の施設の設置・管理、同県発注にかかる土木建築工事に関する指名競争入札参加者の指名、入札の執行、諸負契約の締結及び指名競争入札参加者の指名保留・指名停止などの宮崎県の事務を管理執行していたものであるが、昭和五〇年九月二一日午後九時ころから同日午後一〇時ころまでの間に、宮崎市下北方町横小路五九二八番地二一所在の宮崎県知事公舎の公邸小応接室において、宮崎県建設業協会の会長であった境大和を介し、土木建築請負業を営み宮崎県の建設業者等格付名簿に登録されている株式会社松本組の代表取締役松本汎司こと金宗得から、同会社が施工した宮崎県発注の河内川荒廃砂防工事につき同年六月二八日会計検査院から不良工事の指摘を受けたことにより、宮崎県が同月三〇日に決定した同会社に対する指名競争入札参加者の指名保留とそれに続く同指名停止の処分の処理を早期に終えられて宮崎県が昭和五一年度に発注の予定になっている国道三八八号線道路改良川島トンネル工事の指名入札参加者の指名に入れてもらいたい旨の請託を受け、その謝礼の趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら、現金三〇〇〇万円の供与を受け、もって、その職務に関し請託を受けて賄賂を収受したものである。

(証拠の標目)《省略》

(争点に対する判断)

第一本件公訴事実の存否認定上の問題点について

本件は、判示の現金三〇〇〇万円の授受の時期及びこの時期と関連してその趣旨を中心に争われてきた事案である。ところで、本件公訴事実をめぐって直接事件の真相を知っている者は、前記罪となるべき事実中に登場する境大和、被告人及び松本汎司こと金宗得(以下単に松本汎司と称する。)の三名のみであるが、右の争点に関し、境大和は証人として「昭和五〇年九月二一日、松本汎司に依頼されて被告人に現金三〇〇〇万円の賄賂を渡し、その際、同人に領収メモ(以下本件領収メモという。)を書いてもらった。右以外に被告人に三〇〇〇万円の現金を手渡したことはない。」旨本件公訴事実にそう供述をしているのに反し、被告人は「本件領収メモは、昭和四九年九月二一日境大和から三〇〇〇万円の政治献金を受け取った際書いたものであり、右以外に境大和から三〇〇〇万円の現金を受け取ったことはなく、昭和五〇年九月二一日境大和を介し松本汎司から三〇〇〇万円の賄賂を受け取った事実はない。」旨境大和の右供述を全面的に否定する弁解をしている。そして松本汎司もまた捜査段階から「境大和に三〇〇〇万円の賄賂を被告人に渡してくれるよう依頼したことは全くない。」旨被告人の弁解にそう供述をしており、境大和の供述と被告人及び松本汎司の各供述の間には根本から著しい相違があるばかりか、論理的に両立し得ない対立がある。しかも、本件公訴事実に直接関係するところの唯一の物証である本件領収メモは、その授受の年及び趣旨に触れないで、単に被告人が九月二一日に三〇〇〇万円を受領したという事実のみを証明するにすぎず、本件領収メモをもって右各供述のいずれが信用できるかを決定することもできない。従って、本件公訴事実の存否の判断は、右三名の各供述の信用性を当公判廷に現われた関係各証拠により慎重に検討して決する他はない。そこで、まず本件公訴事実に関係する境大和の供述の概要とそれに対する被告人の弁解の概要を掲げてその対立点を明らかにし、次項以下において、右三名の各供述の信用性を検討してゆくこととする。

一  境大和の証言の概要

第三ないし第八回公判調書中の証人境大和の各供述部分及び証人境大和の当公判廷における供述(以下一括して単に境大和の証言という。)によると、本件公訴事実に関する現金授受の情況の概要は次のとおりであるというのである。

即ち、昭和五〇年九月二一日午後八時ころから午後九時ころまでの間に、松本汎司が三〇〇〇万円の現金を持参したうえ、当時宮崎県建設業協会の会長であった境大和宅を訪ねてきて、同人に対し、①松本組は、同組の施行した宮崎県発注の河内川荒廃砂防工事に関し会計検査院から不良工事の指摘を受けたことにより、いずれ宮崎県から入札参加者の指名停止処分を受けることになるが、宮崎県において右指摘問題の処理が長引くとその手直工事も遅れ、ひいてはその後受けなければならない右指名停止処分が宮崎県の昭和五一年度の工事発注時期にかかるおそれがあるので、右指摘問題の処理を急いでもらい、昭和五一年度の工事発注時期までには右指名停止が解けるようにしてもらいたいこと、②昭和五〇年度は右指摘問題により松本組が宮崎県から受注できる仕事量が減少するので、昭和五一年度はその減少した分まで挽回できるよう松本組に多くの宮崎県発注工事を廻わしてもらいたいこと、③松本組が右指摘を受けたことにより、同組の継続工事で昭和五一年度に宮崎県から発注予定の川島トンネル工事の入札参加者の指名からはずされるおそれもあるので、同トンネル工事の入札の際は必ず松本組が入札参加者の指名に入れるよう図ってもらいたいことの三点について、境大和から宮崎県知事である被告人に懇願方取り次いで欲しい旨、そして、その謝礼として三〇〇〇万円の現金を被告人に渡して欲しい旨依頼してきた。境大和は、当初松本汎司の右贈賄行為に加担することに躊躇を覚え一旦その依頼を断わったが、同人が執拗に頼み込むため、結局同人の依頼を引き受けることとし、被告人に対しこれから伺いたい旨予め電話連絡してその了解をとったうえ、同日午後九時ころから午後一〇時ころまでの間に、松本汎司の運転する自動車に同乗して宮崎県知事公舎に赴いた。そして、境大和は、同知事公舎の近くで松本汎司から右三〇〇〇万円の現金を受け取り、同人を自動車の中に待機させたまま一人で知事公舎に入り、同公舎小応接室において、被告人に対し、松本汎司から取り次ぎを依頼された右三点について同人のため便宜を図って欲しい旨口添えして陳情し、その謝礼として松本汎司から預かって来た右三〇〇〇万円の現金を被告人に差し出した。被告人は、右の陳情を全て聞き入れてくれたうえ右三〇〇〇万円の現金も受け取ってくれたので、境大和は、松本汎司にもそれを直接確認してもらおうと考え、被告人に対し、松本汎司を外に待たしているので部屋の中に入れて直接会ってくれるよう頼んだが、意外にも被告人は松本汎司と直接会うことを拒否したため、後日同人との間で問題が生じてはと考えて、被告人に右三〇〇〇万円を受取った証拠としてその旨の領収証を書いてくれるよう強く懇願したところ、被告人は渋々本件領収メモを書いて境大和に渡した。

二  被告人の弁解の概要

被告人の当公判廷における供述によると、被告人は、境大和の右証言内容を全面的に否定し、本件公訴事実に対し次のとおり弁解している。

即ち、被告人が連続当選を期した昭和五〇年四月施行の宮崎県知事選挙は、従来の知事選挙と異なり被告人にとって厳しい状況下にあったため、被告人としても早目に立候補声明を出すとともに、被告人の後援者らにおいて全県下の青壮年を網羅した確認団体「県民とともにあゆむ豊かな宮崎県をつくる会」を組織し、右知事選に臨むことになった。そのため被告人は相当多額の選挙運動資金の調達の必要性を生じ、昭和四九年七月上旬ころから同年八月上旬ころまでの間に、当時宮崎県建設業協会の会長であった境大和に三〇〇〇万円の政治献金を依頼し、同年九月二一日午後九時ころ宮崎県知事公舎において、境大和から直接右三〇〇〇万円の政治献金を受け取った。その際、境大和は被告人に対し右三〇〇〇万円の政治献金は自分だけでなく他の人達からも集めてきたものであるとのようなことを言って、背広の内ポケットから取り出した便箋紙様の薄い紙を半折りにし、その白紙の部分に三〇〇〇万円を受け取った旨の領収証を書いて欲しいと強く懇願してきた。そのため被告人もその依頼を断り切れず右用紙にその旨領収証を書いたが、その時書いた領収証が本件領収メモである。そして、この時受け取った政治献金は、全て昭和五〇年の知事選挙の運動資金として費消した。被告人は、昭和五〇年九月二一日に境大和と会ったことがなく、同日同人から三〇〇〇万円の現金を受け取ったことはない。

第二境大和の証言の信用性について

一  山中貞則の証言との符合性

(1) 証人山中貞則に対する受命裁判官の尋問調書(以下山中貞則の証言という)によると、被告人は、昭和五四年一月一五日夕刻、非常に親しい間柄で日頃世話になっていた衆議院議員の山中貞則に対し、電話をかけて何か異様な雰囲気の語りかけで、声も非常に上擦り、時には涙声のような感じで、「家内にも言えないで一人日夜悩んでいることがありまして、思い余って先生にお電話を差し上げました。」「実は大変なことが起こっております。自分としてもどうしてよいかわからないので先生にご相談申し上げたいんです。」「三〇〇〇万円の領収証というものに絡んで告発を受けようとしています。」「建設業者が相手だけれども三〇〇〇万円の領収証を書いてしまった。」―山中貞則から慎重なあなたにしてはえらいミスをしたんじゃありませんかと問われると―「実は余りに慎重にしすぎたため、却って結果的にポカといえばポカをやってしまった。」―山中貞則にどういうことなのかと問われると―「実は慎重にしたというのは、金を受け取る相手が直接受け取れない立場の人だからです。」―山中貞則に直接受けとれない人とはどういうことですかと問われると―「実は松本という韓国人の人なのです。」「金を直接私のところへ持ってきたのは境大和です。」「直接もらえない人は外に待たしておいて、境大和一人に中に入ってもらいました。その時領収証を書きました。」と、松本なる韓国人の建設業者から境大和を通じて三〇〇〇万円を受け取り、それに対して領収証を書いた事実を告白した後、その事実に関して国会議員の江藤隆美から告発されようとしているので、山中貞則から江藤隆美に対しその告発を思い止まるよう説得して欲しいと依頼してきたというのである。

そして、右山中貞則の証言中にある松本という韓国人の建設業者が松本汎司であり、同人の経営する松本組が昭和五〇年六月に宮崎県発注の河内川荒廃砂防工事につき会計検査院から不良工事の指摘を受けたことは前掲の各証拠上明らかであり、また、同証言中にある被告人が書いたという領収証がとりもなおさず本件領収メモであることは、証人江藤隆美に対する当裁判所の尋問調書に照らして明らかであるから、境大和の証言は山中貞則の証言と本質的に符合し、この山中貞則の証言は、それが信用できる限り、それだけでも境大和の証言の信用性を支えるに充分である。

(2) そこで、山中貞則の証言の信用性について検討するが、同証言に対し、被告人は、同人にその日電話をかけたことは認めるものの、その電話の内容については、被告人が、境大和を通じて松本汎司から三〇〇〇万円を受け取ったという事実を告白したことはなく、昭和五四年一月六日江藤隆美に東京のヒルトンホテルの山中貞則事務所に呼びつけられて、江藤隆美から領収メモのコピーを見せられながら、「あなたは松本汎司から境大和を通じて三〇〇〇万円の賄賂を受け取りこの領収証を書いたのではないか。」などと詰問されたうえ、「今度の知事選から降りてもらいたい。降りないと言うのならその事実についてこれから直ちに検察庁に告発する。今日はイエスかノーかその返事を聞かせてもらいたい。」などと昭和五四年施行の宮崎県知事選挙の立候補辞退を強く迫られたことを伝えて、選挙は政策で正々堂々と戦いたいので、山中貞則から江藤隆美に対し告発騒ぎを起こさないよう説得して欲しいと依頼したのであって、山中貞則が前記のように証言するのは、右のように被告人が江藤隆美に「松本汎司から境大和を通じて三〇〇〇万円を受け取ったのではないか。」と詰問されたことを伝えたのを聞き違えて、被告人がその事実を告白したものと感違いしたことによるのではないかと主張し、また、弁護人らは、およそ次の三点を掲げてその証言を弾劾する。即ち第一点は、山中貞則の証言は、被告人が主張するように電話の聞き違いによる感違いに基づくものとみられること、第二点は、山中貞則は、本件三〇〇〇万円の授受の問題については前記の電話で被告人に打ち明けられて初めて知ったと証言しているが、それ以前に、既に江藤隆美と本件の告発問題について話し合って知っていた可能性のあること、第三点は、山中貞則の証言によると、本件三〇〇〇万円の授受につき、被告人は、前記の電話で山中貞則に対し、公職選挙法違反になるから第三国人から直接もらえず、仲介として境大和が公舎内に入ったと話したというのであるが、このことは被告人が収賄の事実を告白したというのにそぐわないことの三点である。ところで右の第三点については、山中貞則の証言によれば、同人はそのように証言しておらず、そのいう公職選挙法違反云々の点については、同人は、被告人が本件三〇〇〇万円の贈り主のことを直接受け取れない相手方であり、それは第三国人であると言ったことによって、自分自身で、本件三〇〇〇万円の授受が贈り主から直接手渡されなかったことにつき第三国人から直接受け取ると公職選挙法違反になるからであろうと判断したことを証言しているにすぎないのであり、この点は弁護人らの誤解に基づく主張と言う他なく、以下においては右の第一点従って前記被告人の主張及び第二点についてのみ検討する。

右の第一点についてであるが、先ず、被告人の検察官に対する昭和五四年六月一三日付供述調書によると、被告人自身が、同日の取調で、昭和五四年一月一五日に電話で山中貞則に対し、その贈り主のことにつき「韓国人」とか「松本」などと言ったことはないとしながらも、「境大和から三〇〇〇万円を受け取って領収メモを書いた。」と話したことを認めているところ、被告人は同日までの検察官の取調に対しそのように山中貞則に話した事実を否認していたのであって、その供述の変化を被告人の検察官に対する各供述調書(昭和五四年三月一一日付、同年四月一四日付、同年六月八日付(二通)、同月一一日付、同月一二日付及び同月一三日付)によって仔細に検討すると、被告人は、昭和五四年三月一一日の最初の事情聴取の段階から逮捕後の同年六月一二日までは、境大和との間の現金三〇〇〇万円の授受及び本件領収メモの作成の事実自体さえ全面的に否認し、検察官から「山中貞則に、境大和を介し松本という韓国人から三〇〇〇万円を受領して領収証を書いた旨告白するような話しをしたことはないか。」と質問されても、「三〇〇〇万円受け取った事実も領収証を書いた事実もないのですからそのような告白をするわけがありません。」ときっぱりと山中貞則の証言を否定していたにも拘らず、同年六月一一日及び一二日の両日、検察官から「山中代議士の供述によると、あなたは境大和を介し松本という韓国人から三〇〇〇万円受け取って領収証を書いて渡した旨告白したということであるが、あなたが山中代議士にそのようなことを言っていないと言うのであれば、山中代議士が嘘を言っているということですか。」などと追求されると同時に、本件領収メモの作成についても追求された結果、翌一三日に至ってその時期を昭和四九年とするも現金三〇〇〇万円の授受の事実を初めて認めると共に前述のように山中貞則に対し三〇〇〇万円の受領と本件領収メモの作成の事実を話したことを認め、そのように供述を変化させた理由について「一昨日及び昨日のお取調の際、山中先生は嘘をついているのかとお尋ねがあり胸の痛む思いがいたしました。」「恩もあり信頼申上げている山中先生が嘘をついているのではないかと検事さん達に疑わせるようなことを申上げたことについて非常に心の痛みを感じました。」とその心情を吐露している事実が認められるのであり、以上の供述経過を見れば、被告人としても、本件領収メモの存在のほか、検察官から突きつけられた山中貞則の証言と同旨の同人の捜査段階における供述内容が真実であったばかりに、全面的にこれに抗しきれなかったものと窺われ、右の事実は、山中貞則の証言のうち重要な事項について、被告人自らがその信用性を裏付けたこととなり、ひいては山中貞則の証言の全体の信用性をも裏付けることとなる。しかも、山中貞則の証言の被告人が本件公訴事実について告白するくだりの供述は、非常に詳細かつ具体的であると同時に、前述のように被告人からの語りとして「実は余りに慎重にしすぎたため、却って結果的にポカといえばポカをやってしまった。」「実は慎重にしたというのは、金を受け取る相手が直接受け取れない立場の人だからです。」などと、真実被告人から告白を受けた者でなければ語り得ないような内容も含んでおり、また、同人は、弁護人らの反対尋問において、再三、江藤隆美が被告人に話したということを被告人がそのように話してきたものと感違いしているのではないかと質問されても、最初に被告人から告白を受け、その後にその事実について江藤隆美から告発されようとしていることを聞いたのであるから、決してそのように感違いすることはないとこれを明快に否定しているのであって、そのうえに更に山中貞則の証言によれば、同人は被告人からの電話につきその冒頭で話が重要な内容のことと察して双方共近くに他人がいないことを確認するなど慎重に被告人の話を聞いたことも認められる。以上のことからすれば、山中貞則の証言が被告人や弁護人らが主張するような感違いに基づくものとは到底考えられず、正に被告人自身からの告白の内容を述べたものと認められる。

次に右の第二点についてであるが、弁護人らが指摘するように、なるほど山中貞則は前記の被告人からの電話により初めて本件三〇〇〇万円の授受に関することを知ったと証言しているが、同人がそれ以前に既に本件の告発問題について江藤隆美と話し合っていたとすると、後述のように江藤隆美は被告人の本件三〇〇〇万円の収受の問題を取り上げて被告人に昭和五四年施行の宮崎県知事選挙の立候補を断念させようとして本件の告発問題にかかわり政治的に行動した人物であるだけに、右の江藤隆美との事前の話し合いのことを秘した山中貞則は江藤隆美の右行動に同調してきたものではないかと疑われ、この点から山中貞則の証言の信用性に疑いをいれる余地もある。ところで、弁護人らの右指摘は、証人上村則行の「昭和五四年一月一三日江藤隆美に呼ばれて同人宅を伺いその応接間において同人と話していたときに、山中貞則から江藤隆美に電話がかかってきて、その際同人が山中貞則に『東京は台風が吹いて大変だけれども宮崎は何の音沙汰もない。今から宮崎でも台風を吹かせてひと騒動せないかん。』などと話していたのを聞いて、山中貞則と江藤隆美が本件の告発問題について話し合っていると思った。」という趣旨の証言を唯一の根拠とするものであるが、上村則行の証言によると、そもそも上村則行は、右山中貞則からの電話について江藤隆美が電話口で話している言葉しか聞いておらず、江藤隆美が電話で前述のように「東京は台風云々」と言ったことから、それが本件の告発問題についての会話であったと推測しただけであって、本件の告発問題について江藤隆美と山中貞則の間でかなりこみ入った話をしていたようであると言いながら、右の言葉以外に江藤隆美が言ったことを全く憶えていないというのであるから、上村則行の証言によって、にわかに弁護人らの指摘の事実を肯認することはできない。却って、田原正雄の検察官に対する各供述調書によると、被告人にも江藤隆美にも近い立場にあった右田原正雄が同年一月一六日江藤隆美宅で同人に、本件の告発問題については山中貞則に相談して決めた方がよいのではないかと勧めたのに対し、江藤隆美は、「山中先生は奥さんと一緒に台湾に行っており二四日でないと帰られない。」と答えたが、その時山中貞則から電話がかかり、その電話を終えた後、田原正雄に対し、「今山中先生と話しをしたが黒木知事からも山中先生に電話があったそうだ。夜中に長々と一時間位電話をしてきて江藤先生を説得してくれと懇願したそうだ。山中先生は俺に台湾から帰るまで待てんかと言ったが県内のことは私の判断でやるから任せて下さいと言っておいたよ。」と述べた事実が認められ、右事実によれば、江藤隆美は、同年一月一六日夜の時点において、既に山中貞則が台湾へ行って不在であると思い込んでいたし、本件の告発問題は山中貞則と無関係に進めていたものと認められるほか、右山中貞則からの電話の内容をも併せ考えれば、江藤隆美と山中貞則が本件の告発問題についてその時までに話し合っていたとは認められないうえ、山中貞則の証言によれば、同人は、「本件について江藤隆美から相談を受けたことはないが、ただ昭和五四年一月六日から同月一一日までの間に、同人から被告人が陳情に来ても会わんでくれと言われていた。当時その意味がよくわからなかったが、被告人から本件について告白を受けて初めてその意味がわかった。」旨証言しているところ、被告人自身も当公判廷において、「山中先生に電話をかけた時、(同人は)ははあ江藤君が黒木知事が電話をかけてきても会ってくれるなと言ったがこのことだったっちゃなあと言った。」旨供述しており、山中貞則の右証言は被告人自身の右供述によって裏付けられていると認められるのであって、これらのことに照らせば、山中貞則は本件の告発問題について前記被告人からの電話を受けた時点以前に江藤隆美と話し合っていないものと認められる。

以上のとおりで、被告人及び弁護人らの山中貞則の証言の信用性を否定する主張はいずれも理由がないと認められ、本件証拠上、他に山中貞則の証言の信用性に疑念をさしはさむべき点もなく、前記弁護人ら指摘の第一点に関して述べた各事情に照らすと、むしろ積極的に山中貞則の証言は信用できる。

(3) そうすると境大和の証言は、山中貞則の証言に支えられて充分信用するに足るものと認められる。

二  境大和と松本汎司との関係

(1) 本件は、境大和が松本汎司からの贈賄を仲介したという事案であるところ、境大和の証言によると、同人は、昭和五〇年九月二一日夜、自宅で松本汎司の訪問を受け、同人から突然その持参した現金三〇〇〇万円を差し出されて本件贈賄の取り次ぎを依頼され、同夜にこれを被告人に取り次いだというのであって、そうだとすると、そのころ境大和と松本汎司との間にそれなりの付き合いがあったかどうかも問題であり、特に第二八回及び第二九回公判調書中の証人松本汎司の各供述部分によれば、松本汎司は、昭和四五年ころの宮崎県発注工事をめぐる境大和の大和開発株式会社と田村産業の一件にかかわって以来、境大和は犬畜生にも劣る人間だと思っていたので、それ以来同人とは付き合わなかったと証言しているから、昭和五〇年前後の同人と松本汎司との関係についても検討してみる。

(2) ところで、境大和の証言によれば、同人は、松本汎司との関係について、同人との付き合いは昭和四二、三年ころから同四五年以降も続いていたと言い、その証拠として、同五〇年一〇月ころ境大和経営の大和開発株式会社が税務調査を受けた際に、境大和の三男の尚彦が同会社の増資新株の払込金にあてるため前年の同四九年に友人から借りた一一〇〇万円の借入先を隠蔽するため、境大和から松本汎司に依頼して右一一〇〇万円の借入は同人から借り入れたものであるように工作してもらったことがあること、同五一年一二月ころまで同人との間で歳暮のやりとりもしていたこと、及び、同五〇年二月一九日同人宅の新築祝に五万円を贈ったこと等をあげているところ、同五〇年一〇月ころの前記税務調査に際し、松本汎司が境大和の依頼に応じて右の隠蔽工作をしたことは松本汎司自身も認めていることであり、《証拠省略》によれば、同五一年一二月一四日ころ松本汎司が境大和に対し一万六〇〇〇円のワインセットを歳暮として贈っている事実が認められるうえ、押収してある総勘定元帳によれば、同五〇年二月一九日大和開発株式会社から松本組に対し五万円の祝金が贈られている事実も認められ、以上の事実によると境大和が証拠として挙示する右各事実が認められる他、押収してある工事請負契約書等綴三通によれば、同四七年以降同五一年までの間、六件の公共工事につき、松本組と大和開発株式会社が互いに工事完成連帯保証人となっている事実も認められるのであって、これらの事実、そのうち特に同五〇年一〇月ころの税務調査の件で松本汎司が境大和の依頼に応じ不正工作までしている事実に鑑みると、境大和と松本汎司との間には同五〇年九月前後にも相当親密で深い付き合いがあったものと認められ、前記の境大和が本件三〇〇〇万円の贈賄を取り次いだ際の模様についての境大和の証言は、不自然でもなく首肯し得る。

三  被告人の松本組に対する便宜供与

(1) 境大和の証言によると、本件三〇〇〇万円の授受後の松本汎司の動きとこれに対する被告人及び境大和の対応について先ず昭和五一年六・七月ころ、松本汎司が境大和をたずねて来て、横柄な態度で同人に対し本件三〇〇〇万円の贈賄とからませて松本組に宮崎県発注工事をもっとたくさん受注させてもらえるよう要求してきたので、その日に境大和から被告人にこのことを伝えたところ、被告人は境大和に対し「松本のことは何んとかうまく操作しておいてくれ。」などと言っていたというのであり、更に、同年一一月下旬か一二月初旬ころ、松本汎司が境大和をたずねて来て、同人に対し、やはり本件贈賄にからませて、大和開発株式会社のいわゆる継続工事で宮崎県から発注予定の国道二一八号線平底トンネル工事(以下単に平底トンネル工事という。)の受注を松本組に譲れと要求してきたので、境大和はこの要求を断り、その日に被告人に対しこのことを伝えて松本汎司に金を返した方が良いと言ったところ、被告人は「金を返えせばしっぽを掴まれる。うまく操作してくれ。」と言い、その後、この平底トンネル工事の件につき、被告人は境大和に対し、同年一二月二八日ころと翌五二年七月ころに大和開発株式会社が松本組にその受注を譲ってもらいたいとの意向を伝えたというのであって、もし、被告人が本件三〇〇〇万円の授受後に右境大和の証言のような方向で宮崎県発注工事につき松本組に便宜を図った事実が認められるならば、このことは更に境大和の証言の信用性を裏付ける一つの理由になるので、この点についても検討する。

ところで、検察官は、被告人の松本組に対する便宜供与を示す事実として次の三つの事実をあげている。即ち、第一点は、松本組が前記会計検査院の指摘による入札参加者の指名保留処分解除直後に宮崎県発注工事を三件受注している他、昭和五一、五二年度の同組の宮崎県発注工事の受注高が従前に比べ飛躍的に増加している事実、第二点は、昭和五一年一一月宮崎県発注の国道三八八号線道路改良川島トンネル工事(以下単に川島トンネル工事という。)について、被告人が同トンネル工事を松本組に受注させるため、緒方同県土木部長の反対を押えて松本組を同トンネル工事の入札参加者の指名に入れた事実、第三点は、昭和五二年九月宮崎県発注の平底トンネル工事について、被告人が同トンネル工事も松本組に受注させるため右緒方土木部長の反対を押えて同組を同トンネル工事の入札参加者の指名に入れたうえ、同組に確実に落札させるため同トンネル工事の受注を強く望む大和開発株式会社と株式会社熊谷組にその落札を断念させた事実である。

そこで、検察官の主張に応じて考察するに、右第一点の事実については、宮本貢の検察官に対する昭和五四年六月一五日付供述調書によれば、確かに検察官指摘の各事実を認めることができるが、証人緒方司及び同水野茂の各供述等から明らかなように、宮崎県では入札参加者の指名保留又は停止処分解除後にその処分を受けた業者を県発注工事の入札参加者の指名に入れて受注させることには何ら制限がないのであって、被告人が松本組の前記指名保留処分直後に同県発注の工事を松本組に受注させるため特別の便宜を図った事実は証拠上認められないのであるから、松本組が右処分解除直後に同県発注工事を三件受注した事実を被告人の松本組に対する便宜供与の結果などと軽々しく判断することは到底できないし、単に昭和五一、五二年度の松本組の宮崎県発注工事の受注高が従前に比べ二、三倍位に増加している事実をもって、それを被告人の松本組に対する便宜供与の結果などと推認することも、被告人がそのころ総じて松本組の同県発注工事の受注高を増加させるため特別の便宜を図った事実が証拠上認められないのであるから、この点の検察官の指摘は当らない。従って、以下、右検察官指摘の事実のうち第二及び第三の点について検討する。

(2) まずその第二点の事実についてみるに、第一〇ないし第一二回公判調書中の証人坂本政敏の各供述部分によると、当時宮崎県土木部技監であった同人は、緒方土木部長は川島・平底両トンネル工事を共に松本組に受注させることには反対であった旨証言しているだけで、川島トンネル工事を松本組に受注させることにも反対であったなどとは一言も証言していないうえ、右坂本政敏の証言の他第一二ないし第一五回公判調書中の証人緒方司及び第一六回公判調書中の同伊藤碩の各供述部分を総合すれば、川島トンネル工事を松本組に受注させることは宮崎県土木部の当初からの方針で、緒方土木部長が川島トンネル工事を松本組に受注させることに反対であったなどということはなく、被告人が松本組に同工事を受注させるため特別の便宜を図ったことはないと認められるから、この点に関する検察官の指摘も当らない。

(3) 次にその第三点の事実についてであるが、被告人は、平底トンネル工事の入札参加者指名に関しては宮崎県事務当局の指名入札者審査会の決定に従って決裁したまででその指名入札業者の選定に介入し松本組を同トンネル工事の入札参加者の指名に加えさせた事実はないし、また大和開発株式会社や株式会社熊谷組に対し同トンネル工事の受注を断念させるよう工作した事実もない旨弁解する。

ところで、《証拠省略》を総合すると、宮崎県は結局、平底トンネル工事を松本組に発注したのであるが、その発注に至るまでの経過は次のとおりであったと認められる。即ち、宮崎県土木部は、当初、川島・平底両トンネル工事についてともに昭和五一年度内の着工を目指し、同年一二月度県議会で同時に右両トンネル工事の契約の承認を得るという方針を立て、両トンネル工事ともにそれに間に合うよう発注することにし、同年三月一七日両トンネル工事について建設省と実施認可設計工法を協議し、同年四月七日には川島トンネル工事につき、同年五月一四日には平底トンネル工事につきそれぞれ正式に認可設計の承認を受けるとともに、両トンネル工事の予算を昭和五一年度の同県の当初予算に計上して同年三月度県議会においてその可決を受け、更に同年九月度県議会において両トンネル工事に関する債務負担行為の可決を受けその予算を確保する一方、両トンネル工事について実施設計書を作成しその指名入札業者の選定を進めるなど、右方針に従って順調にその作業を進めていた。ところで、緒方土木部長は、その指名入札業者の選定にあたり、両トンネル工事は同一業者に発注しないという方針をもち、平底トンネル工事は川島トンネル工事に比べ工法上難しい工事であることも考慮し、川島トンネル工事は県内業者に、平底トンネル工事は県外業者に発注する考えでその選定作業を進めていたところ、川島トンネル工事については松本組の継続工事ということで同組が落札する可能性が非常に強かったため、同組を平底トンネル工事の入札参加者の指名からは外す方針を固め、遅くとも昭和五一年一〇月下旬ころまでに、緒方土木部長がその旨被告人に報告しその指示を仰いだが、被告人は、意外にも「松本組は県内のトンネルを大分やってるのよね。」などと言って平底トンネル工事の入札参加者指名から松本組を外すことに難色を示したため、同土木部としては松本組を同トンネル工事の入札参加者指名にも加える方向でその指名業者の選定を再検討せざるを得なくなった。それとともに、松本組が両トンネル工事を落札すれば二つの大きなトンネル工事を同一業者に発注することとなり、昭和五一年一二月度県議会で同時にその承認を求めれば問題になるおそれがあるため、昭和五一年一〇月下旬ころ、同土木部は当初の方針を変更し、平底トンネル工事についてはその発注を三か月遅らせて昭和五二年三月度県議会でその承認を得ることとし、川島トンネル工事についてのみ当初の計画どおりに事務を進め、昭和五一年一一月二二日その入札を執行し、松本組が落札して、同年一二月度県議会でその承認を得た。その後、同土木部の予算等の関係で、最終的には、平底トンネル工事は昭和五二年九月に発注し同年九月度県議会にその承認を求めることとなったが、その間に緒方土木部長が昭和五一年一二月二日から四日まで東京に出張し宮崎県東京事務所で被告人と会った際、同事務所の次長から川島トンネル工事を、判示のように会計検査院から不良工事の指摘を受けた松本組に発注したことについて県議会運営委員会で問題とされている旨の報告があって、被告人が「松本組はいかんな。」と言ったことから、緒方土木部長は、被告人も松本組を平底トンネル工事の入札参加者の指名に加えることは問題になるとして当初の意向を変更するに至ったものと考え、その後は同土木部の当初の方針通り同トンネル工事の入札参加者の指名に松本組を加えない心算でいたところ、昭和五二年七月から八月ころ同トンネル工事の指名入札業者の選定を進めていた際、坂本政敏土木部技監から松本組を同トンネル工事の入札参加者の指名に加えないと被告人の決裁を受けられない旨注意されたので、再度その方針を変更して松本組を同トンネル工事の入札参加者の指名に加えることとし、そうしたうえで、被告人に同トンネル工事の指名入札者推せん案(松本組、大和開発、熊谷組等の業者が指名されていた。)を示してその承認を求めたが、その際、緒方土木部長が被告人に「熊谷組が相当熱心のようです。」と報告したのに対し、被告人は「この程度の仕事は県内でもできるんじゃないか。この仕事のない時に県外業者に仕事を持っていかれるというのはちょっと困るな。」「また熊谷黒木なんというようなことを言われちゃうじゃないか。」と言って、熊谷組が同トンネル工事を落札するのを心配するので、緒方土木部長は被告人に「熊谷組を(入札参加者の指名から)落とすというのは業界の常識上問題がございますよ。やはり入れなきゃまずいでしょう。」「県内業者にという知事のご意向であれば、そんなに大手業者というのは、この程度の金無理して手を出すことはないだろうと思います。」旨説明しておいた。そして、同土木部は、平底トンネル工事の指名入札者につき先に緒方土木部長から被告人に示された指名入札者推せん案のとおり松本組、熊谷組及び大和開発をそれに入れたまま、指名入札者審査会の承認を経て昭和五二年年九月一日に被告人の決裁を受けたが、同トンネル工事の発注が間近になった頃、緒方土木部長は、被告人から「熊谷は大丈夫だろうか。」と前記の心配について念を押されたため、熊谷組に同トンネル工事の落札を断念させるべくその説得工作にあたり、同組からその旨の了解をとりつけた後、同土木部において昭和五二年九月一三日同トンネル工事の入札を行い、結局同トンネル工事も松本組が落札して、同年九月度県議会でその承認を得たのである。

ところで、弁護人らは右認定の事実に対し、先ず平底トンネル工事の発注を三か月遅らすことになったのは、そもそも平底トンネル工事は、川島トンネル工事ほどに緊急性がなく、昭和五一年度内に着工する必要性がなかったうえ、昭和五一年秋ころには県内各土木事務所から道路改良工事のための予算の追加要求があって、同土木部においてそれに振り当てる財源としては平底トンネル工事についての昭和五一年度分の予算の一億二七〇〇万円以外になかった関係上、同トンネル工事の予算をより緊急性の高い右道路改良工事に流用する必要があったこと及び宮崎県土木部において同一県会に大きな契約案件が二件係属するのは県会対策上好ましくないという配慮があったことの二点が原因で、被告人が平底トンネル工事の指名入札業者の選定に介入し松本組をその指名に加えたためではないし、また、松本組が平底トンネル工事の入札に指名され、かつ、緒方土木部長が熊谷組に同トンネル工事の落札を断念させるべく説得工作にあたったのも、松本組は県内有数のトンネル工事業者で同組が宮崎県のトンネル工事の入札に指名されるのは当然のみならず、昭和五一年九月ころはいわゆる第一次オイルショックの影響により県内の景気が極めて沈滞した状況にあり、宮崎県としては公共事業の投資波及効果も考えて県発注工事につき県内業者育成、県内業者優先をその土木行政の基本原則としていたことから、右基本原則にそって、緒方土木部長が自らの考えで松本組を平底トンネル工事の入札参加者の指名に加え、かつ、熊谷組にその受注を断念させるべく説得工作にあたったのであり、それらは被告人の指示を受けてのことではないと主張する。しかし、先ず平底トンネル工事の発注を三か月遅らせた原因については、当時の同県土木部の幹部である証人緒方司、同坂本政敏及び同伊藤碩が、一致して被告人の意向を受けて松本組を平底トンネル工事の入札参加者の指名に加えざるを得なくなったためである旨供述し、他の道路改良工事に平底トンネルの予算を流用する必要があったからその発注を遅らせたのではなく、逆に同トンネル工事の発注を遅らすことになったことから他の道路改良工事にその予算を流用することになったのであると弁護人ら主張の事情を明確に否定しているのである。ただ、証人緒方司のこの点に関する供述は必ずしも明確とはいえないが、同人はその原因として、当時部下の土木部道路課長から平底トンネル工事の予算を他に少し回して欲しいと希望されていたこと、同一県議会に川島、平底の両トンネル工事の契約案件を同時に提出するのは県議会対策上好ましいことではないこと、しかも、右両工事を同一業者が落札した場合には県議会で非常に問題とされるおそれがあることの三点をあげているものの、他面では平底トンネル工事の予算を他の緊急を要する工事に流用する必要があったため同トンネル工事の発注を遅らせたのではない旨供述しており、また、宮崎県土木部が当初から川島・平底両トンネル工事の契約案件を同一県議会に提出するつもりでその事務を進めていたことを肯定しているうえ、そもそも平底トンネル工事の発注延期を検討するに至った契機は、結局平底トンネル工事の入札参加者の指名に松本組を加えざるを得なくなったことにあることが右証人緒方の供述からも窺われるのであるから、その発注延期の原因は前記認定のとおりであったといわねばならない。もっとも、第二四及び第二五回公判調書中の証人落合泰典の各供述部分によると、当時宮崎県土木部道路課長補佐であった同人はこの点につき弁護人らの主張にそう供述をしているのであるが、同人の検察官に対する昭和五四年四月一八日付供述調書によると、同人は、捜査段階ではその原因について平底トンネル工事の設計を検討し直す必要が生じ、その検討を昭和五一年一二月度県議会で契約の承認を求められるような時期までに終えることが不可能な状況にあったためであると述べ、公判段階と矛盾した供述をしていることが認められるのみならず、同人は右供述調書において右のほかに何らかの政治的理由があったかどうかは知らないと述べているのであって、同人の証言は、その上司であった前記の証人緒方司、同坂本政敏、同伊藤碩らの供述と比べると、俄かに措信し得ない。次に松本組が平底トンネル工事の入札参加者に指名されたことに関する弁護人らの右主張についてみるに、松本組が宮崎県内で有数のトンネル工事業者であるにしても、証人緒方司は、当時同県の土木部長として、前記認定のようにもともと川島・平底両トンネル工事は同一業者に発注しないという基本方針を立てていて、川島トンネル工事は松本組が落札する可能性が非常に大きかったので平底トンネル工事の入札参加者の指名からは松本組を外したいと考えていた旨供述しているところから、松本組をその指名に入れたことは、同人の考えに反することが明らかであるのみならず、右証人緒方司の他に証人坂本政敏、同伊藤碩の供述をも総合すれば、それは被告人の意向に基づくものであることもまた明らかである。更に熊谷組に平底トンネル工事の受注を断念させた点についても、弁護人ら主張のように県内業者育成、県内業者優先が当時の宮崎県の土木行政の原則であったにせよ、証人緒方司は、自からの考えでしたことではなく、同県の土木部長として被告人の意向を受けてしたことである旨明確に供述しているのであって、前記弁護人らの主張はいずれも理由がない。

なお、検察官はこの点に関し更に、被告人は大和開発株式会社にも平底トンネル工事の落札を断念させたと指摘するが、このことは、結局のところ前記境大和の証言によらなければ肯認できないのであるから、その境大和の証言の信用性を検討する中で取り上げることはできない。

以上で認定した一連の事実によると、被告人が担当事務当局の最高幹部であった緒方土木部長の反対の考えを押えて松本組を平底トンネル工事の入札参加者の指名に加えた事実及び同人に指示して株式会社熊谷組に働きかけさせ、同組にその落札を断念させた事実は充分認めることができるところ、右の熊谷組に落札を断念させたことについては、初めの事実認定に供した関係各証拠から明らかなように、平底トンネル工事の入札参加者に指名された六業者のうち県外業者は株式会社熊谷組と他一社だけであり、その県外業者のうち落札の可能性のある熊谷組にこれを断念させたことは当時の宮崎県の土木行政における県内業者育成、県内業者優先の方針によったものと考えられなくもなく、更に、また事柄が競争入札に関することであるだけに、必ずしも被告人が松本組に便宜を図るためにしたこととは断定し難いが、右の緒方土木部長の考えに反してまで松本組を平底トンネル工事の入札参加者の指名に加えたことは、県内業者である大和開発株式会社も同トンネル工事の受注を強く希望していたこと等から、前記県内業者育成、県内業者優先の宮崎県当局の方針によっても納得できず、前記認定の経過にあるとおり、被告人がその指名に関し松本組の名を挙げて同組をこれに加えることにこだわった状況に照らせば、被告人が特に松本組のために便宜を図ったことであると認めざるを得ない。

(4) そして、以上のように被告人が緒方土木部長の反対の考えを押え松本組を平底トンネル工事の入札参加者の指名に加えて同組のために便宜を図った事実は、本件全証拠によっても前記境大和の証言のとおり松本汎司が昭和五一年六・七月ころ本件三〇〇〇万円の贈賄にからませて宮崎県発注工事の受注増加を要求してきたことに対応するものとしか考えようがなく、この点においても境大和の証言の信用性は裏付けられている。

四  結論

以上のとおりで、境大和の証言は山中貞則の証言だけによっても充分その信用性を裏付けられているうえに、前記説示の当時の境大和と松本汎司との関係及び被告人の松本組に対する便宜供与の点を加えれば更に充分信用することができるものと認められる。

第三被告人の弁解の信用性について

一  本件三〇〇〇万円の授受及び本件領収メモの作成関係

(1) 被告人は、本件三〇〇〇万円の授受及び本件領収メモの作成に関し、前述のように、結局、本件三〇〇〇万円は昭和四九年九月二一日に境大和から政治献金として受け取ったもので、本件領収メモはその際書いたものである旨弁解しているが、検察官の初期の事情聴取に対しては、本件三〇〇〇万円の授受のみならず、前掲の関係各証拠によって被告人の自筆によることが明白な本件領収メモの作成自体まで一切を否認していたものである。

(2) そこで、まず本件三〇〇〇万円の授受と本件領収メモの作成自体に関する被告人の供述の変遷についてみるに、被告人の検察官に対する各供述調書から明らかなように、被告人は逮捕前の昭和五四年三月一一日及び同年四月一四日、逮捕当日の同年六月八日並びに逮捕後の同月一一日及び同月一二日の検察官の取調において、検察官から本件領収メモを示されそれが被告人の作成にかかるものか否か質問されても、「全く見覚えありません。」「鑑定結果がどう出ようと私はそのような領収証を書いたことはありませんので領収証の筆跡が私のものである筈がありません。」「私の字に似ている部分もありますが私の書いたものではありません。」「おそらく誰かが私の字を真似て偽造したものと思います。それ以外に考えられません。」などと強硬に本件領収メモの作成を否認し、境大和から現金三〇〇〇万円を受け取ったことも全く否認していたところ、逮捕されて五日後の昭和五四年六月一三日に至って、ようやく本件領収メモの作成を認めるとともに、それは政治献金で昭和四九年九月二一日のことであったとしながらも、境大和から宮崎県知事公舎で現金三〇〇〇万円を受け取った事実を認めるに至り、結局前記第一に摘示のように弁解することになったのである。

ところで、《証拠省略》によると、被告人は、捜査及び公判段階において、右のように捜査の初めでは現金の授受も本件領収メモの作成も全く否認した理由について、「私がこれまで三〇〇〇万円の授受もなかったし、領収メモを書いた事実もないと申上げてきたのは、最初新聞記事が出た際、三〇〇〇万円の授受があったのは昭和五一年と出ており、その後昭和五〇年に変りましたが、いずれにしても昭和五一年及び五〇年に三〇〇〇万円を受取った事実は絶対にないことを確信しておりましたので、三〇〇〇万円授受の点も領収メモを書いたことも否認し続けてきたのです。」「五一年、五〇年は、これは金銭の授受、賄賂的なもの、そういうものは全然ございません。したがいまして、金銭の授受はないと自信持って言ってるわけです。それから領収メモはとおっしゃれば領収メモも五〇年、五一年には書いていないんです。だから庇理屈のようでございますけれども、私の字でないということを言えたんです。しかし、四九年になりますと、心の中に、境さんから政治献金として三〇〇〇万円の授受がありますからこれは心重いものがございます。しかし四九年でないんだから言い張ることはいいんだ。言わないという気持がありますから私は書いたことはないと。こういうように言ってきたわけです。」などと説明し、要するに境大和との間で昭和五〇年又は昭和五一年九月二一日に現金三〇〇〇万円の授受があったか否かが問題とされていて、右各年にはそのような事実がなかったので、昭和四九年九月二一日に現金三〇〇〇万円の授受があっても、その授受の年が違うから、前記のように本件領収メモの作成自体をも含めて一切を否認してきたというのである。そうだとすると、被告人がその弁解のとおり真実昭和四九年九月二一日に境大和から三〇〇〇万円の政治献金を受けその際本件領収メモを書いたのであれば、被告人としては、本件収賄の疑いを晴らすため、検察官に対し初めからそのことを述べても良いはずであるのに、これを避けて前記のように本件領収メモの作成さえも強硬に否認していたことは、全く了解できない。もっとも、弁護人らは、それを述べれば被告人にとって昭和五四年四月の知事選立候補はできなくなり政治生命を断たれるおそれがあったのであるから、その被告人のおかれた立場を考慮すると、被告人の右のような否認も十分理解できると主張するが、被告人は、右知事選挙に当選した後、昭和五四年六月八日には本件収賄容疑で逮捕されるというまさに被告人の政治生命に直接かかわる深刻な事態に立ち至っても、なお、前記のような否認の供述を維持していたのであるから、右弁護人らの主張によっても、やはりこのことは全く了解できない。

また、《証拠省略》によると、検察官は、被告人が前記弁解を始めるまで、そもそもその授受及び作成の年度を特定しないで、ただ松本汎司から境大和を介し現金三〇〇〇万円を受け取ったことがあるのか否か、本件領収メモを書いたことがあるのか否かを被告人に尋ねてきたことが認められるのであって、このことからも、昭和五〇年又は五一年には境大和から現金三〇〇〇万円を受け取っていないし、また本件領収メモを書いたこともないのでその一切を否認してきたなどという被告人の右説明は到底了解できない。

更に、被告人が右の全面否認から前記のような弁解をするに至った経緯についてみるに、被告人が前記のような弁解を始めるに至った日までの被告人の検察官に対する各供述調書を(昭和五四年三月一一日付、同年四月一四日付、同年六月八日付二通、同月一一日付、同月一二日付及び同月一三日付)仔細に検討してみると、被告人は、前述のようにそれまで本件領収メモの作成を強硬に否認していたが、同年六月一一日、一二日の両日、検察官から、被告人の自筆にかかるメモ四枚に書かれた文字及び被告人自身がその日に検察官に求められて書いた「九月二一日三〇〇〇万円たしかに受取りました 黒木」という文字と本件領収メモに書かれた文字を細かく比較対照され、その筆跡の類似性を厳しく指摘された結果、本件領収メモを作成したこと自体は到底否認しきれなくなり、また、前述のように既に検察官から告知された山中貞則の証言と同旨の同人の捜査段階での供述も否定しきれなくなっていたことから、同月一三日に至りようやく検察官に対して本件領収メモの作成を認めるとともに、境大和から政治献金として現金三〇〇〇万円を受け取った旨供述し、前記の弁解をし始めたものと認められる。そして、《証拠省略》によると、被告人は、本件の告発が間近に迫った昭和五四年一月三一日の夜、自己の側近である田原正雄、上杉光弘及び清水安次の三人と右告発対策について話し合った際、田原正雄から「事態がここまで切迫した以上本当のことをお聞かせ下さい。知事は問題の領収書を本当に書いたのですか。本当に金を受け取ったのですか。我々は知事が進むという以上ついていくので、真実をお聞かせ下さい。」と親身に尋ねられても「領収証の字は僕の字に似ているんだよ。大変だ。困った。」などと言うのみで、結局その弁解のように昭和四九年九月二一日に境大和から政治献金として本件三〇〇〇万円を受け取り、その時に本件領収メモを書いたとも話さなかったことが認められるのであって、このことからも、前記のように被告人が全面否認から前記弁解に転じたのは、検察官から本件領収メモと前記の山中貞則の供述をつきつけられてこれに抗しきれなかったことによるものと考えるより他ない。

(3) 右のように客観的に明白な本件領収メモの作成及びこれに記載された三〇〇〇万円の授受までもただ強硬に否認し続けた後、検察官から本件領収メモという動かし難い物証と前記の山中貞則の供述をつきつけられて、これらの事実を否認しきれなくなった結果、前記の弁解に転じたという被告人の弁解が現れるに至った経過からしても、被告人の前記弁解はおよそ措信しえないものと言わざるを得ない。

二  本件領収メモの作成経緯関係

(1) 被告人は、本件領収メモの作成経緯についても、当公判廷において、境大和から本件三〇〇〇万円を受け取った後に、「知事さんお願いがあるんですけれども。もう簡単でいいんです。いわゆる領収メモのような書きつけで結構ですから是非書いて下さいませんか。」と右三〇〇〇万円の授受についての領収証を要求され、一旦は断わったが、境大和は、たびたび頭を下げながらこれを依頼し続け、その背広の左の内ポケットから便箋紙程度の薄っぺらな紙を取り出し、テーブルの上でそれを拡げて持って、「この金は知事さん、私だけじゃなくてこんな人達の。」と言い出したので、被告人は、本件三〇〇〇万円が境大和一人からのものではなく他の者らからも集められた金であると感じ取り、境大和に対し「私はあなたに三〇〇〇万円をお願いしたので、そのような人の名前を聞くことはいたしません。」と言って同人の言葉を遮ったところ、境大和は、取り出した紙を二つ折りにして、何も書いてない白紙の方に領収メモの記入を求めてきたので、被告人としては、その紙の裏には他の献金者の名前が書いてあったと推測し、いやな気持がしたものの、境大和に対する感謝の気持もあり、また同人の立場を考えるとつい断りきれなくなり、この領収証を変な人達に見せることはないだろうと境大和を信用したこともあって、右の同人が出した紙に本件領収メモを書いてしまったなどと詳細に述べて、本件三〇〇〇万円が被告人の弁解どおりの政治献金であったとする旨の供述をしている。

(2) しかし、《証拠省略》によると、被告人は、本件領収メモの作成経緯につき、捜査段階では、「境から領収メモを書いてくれと言われた記憶はないのですが、これまで何度か見せていただいた領収メモの筆跡はまぎれもなく私の筆跡ですから現金三〇〇〇万円を受け取った際、境から要求されるままに領収メモを書いて渡したのだと思います。」「領収メモを私が書いたことは間違いありませんが、境から言われて書いたのか、その辺のことがどうもはっきりしないのです。おそらく境から書いてくれと言われたから書いたのだと思います。見せてもらった領収メモには宛名がありませんし、年度が入っておりませんので境が言うままにそのように書いたのだと思います。何の用紙を使ったのか、何を使って書いたのか記憶にありません。」と記憶不鮮明に供述しているのみならず、「その三〇〇〇万円の政治献金を境が他の人達から集めて持ってきたのか、自分の金を持ってきたのか、それは境も言わないし私も聞きませんでしたのでわかりませんでした。」とこの点では前記の当公判廷における供述に反する供述をしていたことが認められる。ところで、被告人は、本件領収メモを書いた経緯についての記憶が前述の公判廷における供述のように明瞭になったのは、主として昭和五六年四月二七日に行なわれた当裁判所による知事公舎の現場検証に立会った時である旨供述するが、被告人の当公判廷における供述によると、被告人は、いわゆる裏の選挙資金として三〇〇〇万円もの多額の政治献金を他人に依頼したのは、そのいうところの本件の境大和からの献金が初めてであり、政治献金に対して領収証を書いたということも本件領収メモが初めてであるというのであって、被告人の弁解どおり境大和から三〇〇〇万円の政治献金を受けて本件領収メモを書いたというのならば、このことは、被告人にとって極めて特異な体験であったと認められるうえ、被告人は、本件領収メモを書いたばかりに告発を受け、本件受託収賄容疑で逮捕されるという事態に陥ったのであり、また、前記のようにして捜査の当初では否認していた本件領収メモの作成を昭和五四年六月一三日になって認めるようになったことを考慮すると、捜査当時には、それについての記憶が余り十分でなかったとは到底考えられないのみならず、そもそも、被告人の当公判廷における供述によれば、被告人が本件領収メモを書くに至ったのは、境大和が本件三〇〇〇万円を他の人達からも調達してきたことを明かしたことにあるのであるから、それについても捜査段階では忘れていて公判廷の供述に反する供述をしたとはおよそ考えられない。従って、起訴後約一年一〇か月を経てからの当裁判所による知事公舎の現場検証に立会った時明瞭にその記憶が蘇ったという被告人の供述は全く信用できず、このようなことで記憶を喚起したとして述べた被告人の前記本件領収メモの作成経緯に関する当公判廷での供述も到底措信し得ないと言う他ない。むしろ被告人の当公判廷における供述を通観すれば、被告人の前記公判廷における供述は、「九月二一日三〇〇〇万円たしかに受取りました 黒木」という本件領収メモの文字が原用紙の下部に当る部分に書かれてあることから、これに乗じて本件三〇〇〇万円が政治献金であるとの被告人の弁解を真実らしく見せようとしたに過ぎないのではないかと疑われるのである。

三  本件三〇〇〇万円の使途先に関する弁解

(1) 被告人は、当公判廷において、前記弁解を支えるため、本件三〇〇〇万円の使途先につき、「境大和から昭和四九年九月二一日に受け取った三〇〇〇万円は、その直後から昭和五〇年五月ころの間に同年四月の知事選挙のため、選挙参謀であった故税所篤行に合計約一〇〇〇万円余り、『県民とともにあゆむ豊かな宮崎県を作る会』(以下作る会と略称する。)の幹事長清水安次に合計一二〇〇万円、同選挙の自己準備資金として出納責任者の西松喜次郎に合計四一〇万円をそれぞれ渡した他、被告人の後援会及び『作る会』の専従職員として活動した上村宗士、坂元馨及び岡田稔太良の三名にその報酬として合計約二二〇万円、印刷代として合資会社愛文社印刷所(以下愛文社と略称する。)に合計約五〇万円から六〇万円支払うなどして全額費消した。」旨供述している。

(2) ところで、《証拠省略》によると、被告人は、本件三〇〇〇万円の使途先について、検察官の取調に対して当初は、「境大和から政治献金として受け取った三〇〇〇万円は四、五回にわたって税所篤行さんに選挙(昭和五〇年四月の知事選挙)の裏資金として渡しました。」と供述し、その明細を一覧表に作成していたにも拘らず、その後その供述を翻して、故税所篤行に四、五回にわたって合計三〇〇〇万円を渡したとの前記供述は間違いであったので訂正すると言い、「実際は私自身が裏の選挙資金として全部使ってしまいました。」と供述するようになり、検察官からその具体的使途について尋問を受けると、当初は「これは選挙関係に使いましたので申上げられません。」とその供述を拒否していたものの、その後「そのうちの約四〇〇万円は五〇年三月頃二、三回にわけて選挙費用として選挙事務所に渡しました。」とその一部を供述するに至ったが、更に検察官から残額約二六〇〇万円の具体的使途について尋問を受けると、「後援会員拡大とか選挙準備とかに使いました。具体的なことはこれ以上申上げられません。」とその供述を拒否し、検察官から本件三〇〇〇万円は昭和四九年九月二一日に政治献金として受け取ったという被告人の弁解の真偽を明らかにする為にもその具体的使途を明確にすることが必要であると再三再四説得されたにも拘らず、「これ以上申上げられません。これ以上二六〇〇万円の使途を追及されますと黙秘権を行使するしかありません。」と強硬にその供述を拒否し、検察官に対しては結局最後までそのいうところの残額二六〇〇万円の具体的使途を明らかにしなかったことが認められるのみならず、被告人の当公判廷での供述によれば、被告人は、弁護人らに対しても起訴後約一年一一か月を経た昭和五六年五月ころまでそれを明らかにしなかったと言うのであり、従って、弁護人らが右の具体的供述について初めて主張したのは、昭和五六年八月一二日のことであることが記録上明らかである(弁護人らの意見書(四))。そして、被告人は、その理由につき当公判廷で「私はこの三〇〇〇万円の金銭の使い途については大まかなことは知っておりました。しかし検察官から取調べを受けた当時は未だその記憶が十分に蘇っていなかったうえ、『作る会』などの活動に従事してくれた人達にいかなる迷惑をかけるかわからなかったので話さなかったのです。」「また弁護人にも話さなかったのは、やはり『作る会』などの活動に従事してくれた人達に迷惑をかけてはならないということの他、黒木家の資産状態を明確にすることが先決だと考えたからです。」などと述べているが、被告人の主張によると、本件三〇〇〇万円のうち約一〇〇〇万円は故税所篤行に、一二〇〇万円は清水安次に渡したというのであり、西松喜次郎に渡された選挙の自己資金四一〇万円を除くと、右税所及び清水に渡った分がその使途の殆んどを占めることになるところ、税所篤行の分に関しては、被告人は当初検察官に対し本件三〇〇〇万円は全て税所篤行に渡したと供述していたのみならず、検察官から取調を受けた当時同人は既に故人となっており、同人に約一〇〇〇万円を渡したことを明らかにしても同人に迷惑をかけることなど全く考えられないし、清水安次の分に関しても、同人は被告人の側近で最も信頼する人物の中の一人なのであるから、たとえ同人に迷惑をかけるようなことがあるにしても、同人に一二〇〇万円渡したことを明かすのをはばかることはないと考えられるうえ、被告人は、本件受託収賄容疑で逮捕、勾留されるという深刻な事態に立ち到った中で、前述のように検察官から再三再四被告人の弁解を裏付けるためにもその具体的使途を明らかにするよう説得されていたのであって、被告人の弁解が真実だとすれば当時の記憶なりにでもその具体的使途を明らかにすることが身の潔白を明らかにするために最も重要であることは充分わかっていたはずであることを考慮すると、前記のように検察官からその具体的使途について追求されると、最後には黙秘権を行使するしかないなどと言って強硬にその供述を拒否してきた被告人のこの点に関する捜査段階での対応は、全く了解できない。また、被告人にとってその弁解を本件三〇〇〇万円の移動の面から裏付けるには、被告人及びその家族の資産の増減を調べるという間接的な方法から始めるより、まず直接に本件三〇〇〇万円の具体的使途を明らかにすることが有効であると考えるのが当然であるのに、被告人は、弁護人らが昭和五六年二月一九日に、本件三〇〇〇万円は昭和五〇年四月の知事選挙の運動資金に充てられたとの事実の立証のために前記清水安次を含む被告人の後援会及び作る会の関係者等一八名の証人尋問を請求した段階においてさえ、当の弁護人らにすらその使途を明らかにしようとしなかったということも、また全く了解できない。

以上、本件三〇〇〇万円の使途に関する被告人の捜査段階の供述から前記の当公判廷における供述に至るまでの経過に照らしても、前記のその当公判廷における供述内容はにわかに信用できない。

(3) また、《証拠省略》によると、被告人は、本件の告発が間近に迫った昭和五四年一月三〇日、同月三一日及び同年二月二日の夜、長時間にわたって田原正雄、上杉光弘及び清水安次等の側近とともにその告発対策について協議したが、その際、前述のように田原正雄から真実を打ち明けてくれるよう懇願されても、境大和からの政治献金だという本件三〇〇〇万円を昭和五〇年の知事選挙の運動資金に使った旨明かさなかったのであり、特に清水安次も同席していたのに昭和五〇年の知事選挙の際同人に渡した一二〇〇万円が実は本件三〇〇〇万円の中から出したのだとも言わなかったし、席上「金は税所さんが後援会の方で使われたということにしたらどうか。」という発言があっても、「亡くなった恩人に責任を負わせるようなことは考えるべきでない。」と言うのみで、被告人の当公判廷における供述にあるように故税所篤行に本件三〇〇〇万円の中から約一〇〇〇万円余りを渡したなどとも話さなかったことが認められる。しかし、被告人が真実昭和四九年九月二一日に境大和から三〇〇〇万円の政治献金を受け、これをそのいうように昭和五〇年の知事選挙の運動資金に費消したのであるならば、被告人が本件三〇〇〇万円の中から一二〇〇万円を渡したという相手の清水安次が同席し、また、その使途に関して税所篤行の名が出たその席上で、被告人がそのいうところの本件三〇〇〇万円の使途のうち右清水安次及び税所篤行に渡した分のことさえ明かさなかったことは、到底了解できないことであって、この点からも、前記の本件三〇〇〇万円の使途についての被告人の当公判廷における供述は信用し難い。

(4) ところで、弁護人らも、およそ前記被告人の当公判廷における供述にそい、被告人が境大和から受け取った本件三〇〇〇万円のうち、四一〇万円は被告人から西松喜次郎を介し被告人の選挙事務所に渡されて自己準備資金に、一二〇〇万円は被告人から清水安次に渡されて「作る会」の結成及び活動資金に、約一〇四〇万円は選挙活動資金として被告人から税所篤行に渡されて、その約一〇四〇万円のうち、約三〇〇万円は更に「作る会」の活動資金に、約二〇〇万円は被告人の選挙事務所のいわゆる裏金に、二〇〇万円は自由民主党宮崎県支部連合会に対する寄付金に、約三四〇万円は後援会関係費用にそれぞれ費消された他、残額は、被告人から上村宗士、坂元馨及び岡田稔太良の三名に対し被告人のいうような報酬として合計二二〇万円、愛文社に対し印刷代として約八二万三九〇〇円それぞれ支払われ、以上のとおり全額昭和五〇年の知事選挙のために費消されたと主張し、前記被告人の供述を裏付けようとする。

なるほど、《証拠省略》によると、昭和五〇年の知事選挙の自己準備資金として被告人が西松喜次郎を介して被告人の選挙事務所に合計四一〇万円拠出した事実が、《証拠省略》によると、税所篤行が昭和五〇年一月一日から同年六月三〇日までの間に被告人の妻の黒木サエ子名義で自由民主党宮崎県支部連合会に二〇〇万円を寄付した事実が確かに認められる他、《証拠省略》によれば、昭和四九年九月以降被告人が右三名に対し報酬として合計二二〇万円を支払ったとされ、《証拠省略》を総合すると、昭和五〇年の知事選挙に際しての「作る会」の結成及び活動資金に一〇〇〇万円を超える多額の金銭が使われたということも否定できず、《証拠省略》によると、昭和五〇年の知事選挙の際の被告人の選挙事務所においては、宮崎県選挙管理委員会に届出られた費用以外に、いわゆる裏金として運動員の休泊費、タクシーチケット代、来客の食事代、いわゆるイエローペーパーの対策費、事務所の借賃及び駐車場料金等にかなり多額の金銭を費やし、それらを全て税所篤行が支払っていたと認められなくもなく、右被告人の選挙事務所のいわゆる裏金として税所篤行が約二〇〇万円支払ったとの弁護人らの主張もあながち理由がないとは言えないし、《証拠省略》によると、右知事選挙では税所篤行が参謀として実質的に被告人の選挙事務全般を指導統轄していたことを考えれば、右税所篤行が後援会関係費用として二八〇万円位を支出したのではないかと認められなくはないうえ、愛文社及び宮崎県知事各作成の各照会回答書に被告人の当公判廷における供述を加えると、弁護人ら主張のように被告人が印刷代として愛文社に対し数十万円にのぼる金銭を支払ったことも認めることができ、以上によれば、昭和五〇年四月に施行された宮崎県知事選挙に際し、被告人の陣営ではその選挙費用等におよそ弁護人ら主張のようなかなり多額の金銭が使われたことは一概に否定できない。

しかしながら、右弁護人ら主張の支出金銭の出所が問題で、先ずそのうち特に多額の清水安次の支出にかかるとする一二〇〇万円及び税所篤行の支出にかかるとする約一〇四〇万円余りの金銭が、はたして被告人が境大和から昭和四九年九月二一日に献金として受けとったという三〇〇〇万円の中から右清水安次らに交付されたものであるか否かについて検討する。右清水安次及び税所篤行により支出された金銭が被告人のいうところの境大和から受け取った三〇〇〇万円の献金のうちから同人らに交付されたものであるとする直接の証拠は被告人の当公判廷における供述しかなく、ただ、右清水安次の分については、前記証人清水安次が昭和四九年一〇月から昭和五〇年四月の知事選挙告示直前にかけて被告人から「作る会」の結成、活動資金として合計一二〇〇万円を受け取った旨供述し、その支出にかかる金銭はすべて被告人の手もとから出たものであると言うのである。一方、右税所篤行の分については、その支出にかかる金銭が被告人の手もとから出たものであるということについてさえ、他にこれにそう直接の証拠はない。ところで、右清水安次の証言内容は、その証人尋問の経過から明らかなように、前記のとおり昭和五六年八月一二日に弁護人らが初めて本件三〇〇〇万円の具体的使途について主張したのに先行して唐突に出てきたものであって(同証人の立証趣旨は、単に昭和四九年以降の黒木博後援会の活動及びその資金の収支についてであった。)、同証言から窺われるとおり右清水安次がかつて被告人の側近であったばかりか現に熱心な被告人の支援者であるとみられることに鑑みると、本項の(2)で被告人が弁護人らにそのいうところの本件三〇〇〇万円の具体的使途を明かしたという時期のことに関して述べたと同様の理由により同証言の信用性に疑問があるばかりか、同証言のうち「作る会」の活動資金の調達面についてみても、右清水安次は、被告人以外の者からその資金をもらっていないと言うが、《証拠省略》によると、「作る会」は昭和五〇年二月二七日に後口茂から一五〇万円と福永広記から五〇万円の寄付を受けており、このうち後口からの寄付金は同年の知事選挙後に返還されたものの、それを同人から受け取ったのは右清水安次自身であったこと、また、「作る会」は昭和五〇年三月一九日から同年四月一二日までの間に右後口茂からの一五〇万円、福永広記からの五〇万円の他に温水三郎から一五〇万円の寄付を受けた旨宮崎県選挙管理委員会に届けていることが認められ、「作る会」の活動資金の調達面については疑惑があり、少くともこの点に関する右清水安次の証言は俄かに措信し難い。更に、《証拠省略》によると、本項の(3)で述べたとおり昭和五四年一月三〇日から同年二月二日までの間に三回にわたり、被告人とその側近の清水安次等が本件の告発対策について協議した際、「金は税所さんが後援会の方で使われたことにしたら。」などと本件で問題の三〇〇〇万円の使途についての話が出たのに、被告人から、その三〇〇〇万円の中から清水安次に一二〇〇万円、税所篤行に約一〇〇〇万円余りを渡したとの話もなかったし、右清水安次からも、同人の証言のように被告人から「作る会」の資金として合計一二〇〇万円を受け取ったことがあるなどとは全く話していないことが認められ、右清水安次の証言はいよいよ措信できない。以上に本項の(2)及び(3)で述べたことを併せ考えると、畢竟弁護人ら主張の清水安次の支出にかかる一二〇〇万円と税所篤行の支出にかかる約一〇四〇万円余りの金銭は、被告人が境大和から受け取った三〇〇〇万円の中から出たものではないと認めざるを得ない。このように、弁護人らの主張の約三〇〇〇万円の支出のうち合計約二二〇〇万円もの支出が、被告人が境大和から受け取った三〇〇〇万円のうちから出たものとは認められない以上、弁護人ら主張の昭和五〇年四月の知事選挙にかかる各支出関係によって、被告人の本件三〇〇〇万円の使途に関する当公判廷での供述を支えることはできない。

(5) 以上のとおりで、被告人の本件三〇〇〇万円の使途に関する当公判廷での供述は信用できず、そのいう使途関係から、本件三〇〇〇万円は昭和四九年九月二一日に政治献金として受け取ったものとの被告人の弁解を裏付けることができないばかりか、却って、その弁解は信用できないことになる。

四  被告人及びその家族の資産の変動関係

(1) 弁護人らは、被告人がもし昭和五〇年九月二一日に境大和を介して松本汎司から賄賂として本件三〇〇〇万円を受け取っていたならば、被告人若しくはその家族の資産状態にそれにそう変動が生じていると考えられるところ、被告人とその家族の資産状態の調査結果からはそのような資産変動の事実は全く見出し得ないのみならず、検察官でさえその捜査過程においてそのような資産変動の事実を発見できなかったのであって、このことは、畢竟、被告人が昭和四九年九月二一日に境大和から政治献金として本件三〇〇〇万円を受け取り、それを昭和五〇年に施行された宮崎県知事選挙の選挙準備資金等に全額費消したことを端的に示すものであり、被告人が昭和五〇年九月二一日に賄賂として本件三〇〇〇万円を受け取っていないことを証明するものであると主張する。

(2) なるほど、《証拠省略》によれば、税理士である右吉野俊美が証券及び預金関係につき被告人とその家族の資産状態を調査したところ(証券関係については昭和四九年から同五三年の間の日興証券投資信託販売株式会社における被告人とその家族の証券取引高、預金関係については同四九年から同五三年の間の株式会社宮崎銀行、株式会社高千穂相互銀行、株式会社鹿児島銀行、宮崎信用金庫、株式会社宮崎相互銀行、農林中央金庫及び郵便局における被告人とその家族の預金高)、本件三〇〇〇万円の出入りを示すような資産変動の事実が全くなかったことが認められるうえ、他に右調査にそう証拠もあり、また、《証拠省略》によると、不動産関係についても、被告人とその家族が所有する不動産につき本件三〇〇〇万円の出入りに関係するような資産変動の事実が全くないことが認められるうえ、他にそれにそう証拠もある。

しかしながら、右吉野俊美の資産調査に関しては、同人の証言から明らかなように、同人は要するに被告人とその妻黒木サエ子から申告を受けた範囲内において被告人とその家族の証券及び預金関係の資産状態を調査したにすぎず、その調査結果がはたして被告人とその家族の証券及び預金関係の全資産を対象としたものであったか疑問であるし、そもそも、いずれにしても被告人と境大和との間での本件三〇〇〇万円の授受は、二人だけで極めて秘密裡に行なわれたものであることに鑑みると、右吉野俊美及び黒木サエ子の各証言から被告人とその家族の資産状態には本件三〇〇〇万円の出入りを示すような資産変動の事実は全く認められないからといって直ちに弁護人ら主張のように結論することは到底できないのである。

(3) 従って、弁護人らの右主張は推論の過程において誤りがあり、到底採用し得ない。もっとも、検察官がその捜査過程において本件三〇〇〇万円の出入りを示すような資産変動の事実を把握できなかったことも事実であるが、前記のとおり、いずれにしても本件三〇〇〇万円の授受が被告人と境大和の二人だけの間で極めて秘密に行なわれたものであることに加えて、前記の捜査段階における被告人の弁解の他、被告人がその弁解を前提としてでさえその使途については殆んど供述しなかったことに鑑みると、それによって直ちに弁護人らの右主張が理由付けられるものではない。

以上により、この点からも被告人の弁解裏付けることはできない。

五  結論

以上のとおりで、結局、本件三〇〇〇万円は昭和四九年九月二一日に政治献金として受け取ったものであるとの被告人の前記弁解は到底措信できず、むしろ、右弁解は、本件領収メモは年度が記入されていなかったことなどから虚構の事実を作り上げたものといわざるを得ない。

第四境大和の証言及び被告人の弁解の信用性に関わるその他の問題点について

一  本件領収メモをめぐっての問題点

(1) 本件領収メモは、本件公訴事実に直接関わる唯一の物証であるところ、先ずその形状が全用紙のうち、「九月二一日三〇〇〇万円たしかに受取りました 黒木」という文字の部分を残してその上下の部分が切り取られていることから、被告人は、当公判廷において、本件領収メモの上部の切り取られた部分には政治献金者の名前が書いてあったはずであると供述して、境大和の証言を弾劾すると共に自己の弁解を裏付けようとし、また、弁護人らは、本件領収メモに関し、その作成等に関する問題点及び右の被告人の当公判廷における供述と同様のことを指摘して、境大和の証言の信用性を弾劾すると共に被告人の弁解が真実であると主張する。

(2) ところで、境大和の証言によると、被告人から本件領収メモを徴するに至った経緯及び本件領収メモの元の用紙から上下の部分を切り取るに至った経緯は、次のとおりであったというのである。

即ち、境大和は、昭和五〇年九月二一日午後九時ころから午後一〇時ころまでの間に、松本汎司とともに同人の自動車で宮崎県知事公舎に赴き、その近くで同人を車内に待たせたまま一人で同公舎内に入り、同公舎の小応接室において被告人に面会して松本汎司の判示のような依頼事項を伝えたうえ、同人から預ってきた現金三〇〇〇万円を渡したが、その後、その授受の金額も大きいので、被告人に松本汎司と会ってもらい、同人から直接被告人に陳情させたうえ、被告人に右の預ってきた三〇〇〇万円を渡したことを松本汎司に直接確認させようと考え、被告人に「知事さん、実は松本君がこのそばまで来ております。ここに入れていただけないでしょうか。」と頼んだところ、被告人が意外にもそれを拒否したため、被告人は冷めたい人だと感じ、将来松本汎司との間で問題が起きた際、被告人がこの三〇〇〇万円を受け取ったことを否定するようなことになれば大変なことになると思い、このような金銭の授受について領収証を要求するのが非常識なこととはわかっていたが、被告人に領収メモを書いてくれるよう何度も強く懇願し、本件領収メモを書いてもらった。そして、境大和は被告人から本件領収メモを受け取った後、松本汎司の自動車で急いで帰宅したが、その途中同人に、「知事さんが万事了承してくれた。陳情はうまくいったよ。」と話したところ、同人はただただ何回も礼を言って大変喜んでいたので、被告人から受け取った本件領収メモについては、特に松本汎司から頼まれたわけでもなかったことから、つい同人の喜びにまぎれて同人に見せるのをうっかり忘れてしまい、自宅に戻ってそれに気付いたものの、もともと同人に頼まれていたものでもないので、そのままこれを小物入れの抽出しの中に入れて置いて忘れてしまっていた。ところが、昭和五一年六月か七月ころになって、松本汎司が境大和を訪ねて来て、境大和に対し、以前とは打って変わって横柄な口のきき方で、「あんたは会長だからどうにでもなるだろうが、自分のところでは非常に県の工事が少なくて困っている。」など不平不満を述べたうえ、「この三〇〇〇万円は三〇〇〇万じゃないですよ。一億ですよ。」などと本件三〇〇〇万円の贈賄を持ち出して脅かしてきたことから、境大和は、本件領収メモのことを思い出し、小物入れの抽出しを開けてみたところ、底の方からくしゃくしゃに皺がより隅が切れかかった元の全紙のままの本件領収メモが出てきたので、これがあれば松本汎司から横領したなどと言いがかりをつけられることもないと思い、その大事な部分は字の部分だけだから、この部分をなるだけきれいにしてとっておこうと考え、その皺を伸ばし、元の用紙から右の字の書いてある部分だけを残してその上の部分と隅の切れかかった部分を切り取り、右の字の書いてある部分を西洋紙に貼って裏打ちしてしまっておいた。それが本件領収メモであって、その元の用紙から切り取った上の部分には何も書いてなかった。

以上がこの点に関する境大和の証言の概要である。

(3) 右の境大和の証言に対し、弁護人らは、先ず本件領収メモを被告人から徴するに至った経緯に関し、第一点として、汚職事犯においては通常この種の領収メモが徴されるようなことはないから、境大和が本件三〇〇〇万円の賄賂を被告人に交付したのに対して被告人から本件領収メモを受取ったということ自体不可解であり、第二点として、境大和が言うように松本汎司からの本件三〇〇〇万円の賄賂を被告人に取り次いだのであれば、境大和としては、被告人に対し余り強引にその領収メモを要求できるはずがないから、境大和が被告人に本件領収メモをかなり強引に要求し、且つまたそれができたことにも不可解な点があり、更に第三点として、境大和は、本件領収メモを本件三〇〇〇万円の授受の証拠として松本汎司に見せるために被告人から徴したと言うのであるから、それを全く松本汎司に見せていないということにも不可解な点があって、以上の諸点を考慮すると、境大和の証言は全く措信できず、却って被告人の弁解が理由付けられると主張する。

しかし、弁護人らの主張する右の第一、二点に関しては、一般的な理屈としてはそうであるかもしれないが、境大和の証言によれば、境大和が被告人から本件領収メモを徴した理由は、境大和が本件三〇〇〇万円を被告人に渡したことを松本汎司に直接確認してもらおうと思い、その授受が終ってから被告人に松本汎司も知事公舎内に入れてくれるよう依頼したところ、被告人はそれを拒否したので、冷たい人だと感じ、後の紛議に備え本件三〇〇〇万円を被告人に渡したことの証拠を残しておく必要があると考えたためであり、三〇〇〇万円もの大金の授受の仲介者としての境大和の立場を考慮すると、以上のような状況下において、同人が本件三〇〇〇万円の賄賂の授受につき被告人にかなり強く領収メモを書いてくれるよう懇願し、被告人から本件領収メモを受け取ったことは十分理解できるのであって、これらの点に関する弁護人らの主張は理由がない。また弁護人らの主張する第三点に関しても、境大和の証言によると、境大和は事前に松本汎司から領収証を要求されていたわけでもなく、また帰宅途中の車内で松本汎司に被告人が本件三〇〇〇万円を受け取った模様を報告したところ、同人はただ何回も礼を言って喜んでいたというのであるから、特にその時に本件領収メモを松本汎司に見せる必要性も認められず、境大和が本件領収メモを松本汎司に見せるのをうっかり忘れてしまったということも十分理解でき、そこには何ら不自然な点は認められず、この点に関する弁護人らの主張も理由はないと言う他ない。従って、本件領収メモを被告人から徴した経緯に関する境大和の証言には何ら不審な点がないと言うべきであり、他方、これらの点から被告人の弁解を合理化することはできない。

更に、弁護人らは、本件領収メモの元の用紙から上下の部分を切り取った経緯に関する境大和の証言について、本件領収メモは真新しく見え、切り取ったところがぐしゃぐしゃになって破れていたという程の古さも認められないので、本件領収メモの元の用紙から上下の部分を切り取った動機に関する境大和の証言は全く措信できないうえ、たとえぐしゃぐしゃになっていたとしても、本件領収メモは本件三〇〇〇万円の授受に関する唯一の重要な物証なのであって、それに手を加えて上下の部分を切り取るというのは不自然であるから境大和の証言は全く措信できず、結局同人は、本件領収メモの上部に書いてあった政治献金者名を隠すために、その元の用紙の上部を切り取ったのであると主張する。

しかし、先ず、本件領収メモの形状を仔細に検討してみると、その表面には多くの小皺が認められて、弁護人らの言うように本件領収メモが真新しく見えるということはなく、証人境大和が供述するように、本件領収メモの隅の方が切れかかっていたということもその形状から推認できる(なお、弁護人らは、右の切り取った部分が破れていたと証人境大和が供述したように主主張するが、同証人はそのように供述していない。)。そして、境大和の証言によると、同人は、本件領収メモがくしゃくしゃになって隅の方が切れかかっていたので、本件領収メモの大事な部分は字が書いてある部分だけであるから、この部分をなるだけ綺麗にしてとっておこうと考え、証拠物の原型に手を加えることの重大さに思いを致すこともなく、その元の用紙の上下の部分を切り取ったというのであって、同人の法律の専門家でもなく、特に証拠の評価に関する知識を持ち合せているものでもないことを考慮すると、それもあながち不自然ということはない。従って、弁護人らの右主張は理由がないと言う他なく、本件領収メモの上下を切り取った経緯に関する境大和の証言にも、不審な点はないと言える。

そもそも、本件領収メモの元の用紙から切り取られた部分には政治献金者の名前が書いてあったのではないかと疑わせる証拠は、被告人の当公判廷における供述のみであるところ、前記第三の二で検討したところから明らかなように、被告人の右供述は全く措信できないのであるから、右のように本件領収メモの形状に関する境大和の証言に不審な点がない以上、もはや、そのような疑いは払われたと言うべきである。

(4) 猶、当裁判所は、被告人の右のような供述を受け、本件告発状に添付された本件領収メモのコピー(以下本件コピーという。)は、本件領収メモの「九月二一日三〇〇〇万円たしかに受取りました 黒木」という文字とその直下の罫線部分以外の部分を意図的に隠してコピーしたものであることが明らかに認められることから、本件告発状作成当時は、本件領収メモはその元の用紙のまま原型を保っていて、その切り取られた上部の部分には何らかの記載があるため、これを隠そうとしてわざわざ右のような工作をして本件領収メモをコピーし、後に検察庁に本件領収メモを提出する段階においてその元の用紙から右の部分を切り取った疑いもあると考え、その点に関し、検察官及び弁護人らに立証を勧告し、更に職権によっても証拠調べを遂げたわけであるが、その結果、告発状作成当時既に、本件領収メモは現在の形状になっており、右の文字とその直下の罫線部分以外の部分を隠して本件コピーを作成したのも、右に疑ったような特別の意図の下になされたものではないことが明らかになった。

即ち、本件告発状の作成者で弁護士である証人池田治の当公判廷における供述によると、同人は、境大和が本件領収メモのコピー(以下原コピーという。)を持参して本件告発を依頼してきたため、本件告発状に添付されている第二号証ないし第八号証の各資料も収集したうえ、告発状に添付するものとして右原コピーの再コピーと右各資料のコピーを右池田治の事務所の事務員である亀田節子に依頼したが、同女が最初にコピーした右原コピーの再コピーは黒ずんでいて汚なかったため、同女にもっと綺麗にコピーするよう再度依頼したところ、同女は本件コピーを作ってきたと言うのであり、また、証人亀田節子の当公判廷における供述によると、同女も、池田治から右原コピーの再コピーと右各資料のコピーを依頼されて右原コピーを再コピーしたが、初め右原コピーの上に右各資料も重ねてコピーしたため右原コピーの再コピーに右各資料の文字が写ってその再コピーが黒ずんだ汚ないものになってしまい、池田治からもっと綺麗にコピーするよう言われたため、今度は、右原コピーの前記文字の部分とその直下の罫線部分以下の部分を白紙で隠して本件コピーを作成したと供述しているところ、右原コピーを最初に再コピーしたものであるとして池田治が任意提出した領収メモコピーを仔細に検討してみると、その上部には告発状に添付されている第二号証の文字が薄く出ていることから、それが右各資料とともに本件告発状作成当時にコピーされたものであると認められ、この池田治が任意提出した領収メモコピーによれば、本件告発状作成当時には既に本件領収メモは現在の形状になっていたことも十分認められるうえ、右池田治及び亀田節子の各証言も措信でき、本件コピーが前記の疑いのような特別の意図の下に作成されたものでないものと認められるのである。

(5) 以上の説示から明らかなように、本件領収メモの元の用紙から切り取られた部分に政治献金者の名前が書いてあったとの疑いは容れられないし、また、本件領収メモの徴収の経緯からも、前記認定の境大和の証言の信用性は左右されず、被告人の弁解は理由付けられない。

二  昭和五〇年九月二一日夜の境大和及び被告人の行動

(1) 弁護人らは、境大和は昭和五〇年九月二一日の夜には、翌二二日に東京都港区の産業安全会館で開催される予定の建設業労働災害防止協会第三二回理事会に出席するため東京に出張していて、宮崎市内にいなかった可能性があり、また、被告人は、同月二一日午後七時ころから午後一一時ころまで宮崎県知事公舎内の私邸で被告人の長女A子と孫B子の誕生パーティーに加わっていて、その間に来客もなく右誕生パーティーから席を外したことがなかったから、境大和の証言のように同日午後九時ころから一〇時ころまでの間に同人から被告人に対し本件三〇〇〇万円が渡されたというようなことはあり得ないと主張する。

(2) 先ず右弁護人ら主張の境大和の東京出張の点についてみるに、なるほど、《証拠省略》によると、これらの宮崎県建設業協会の出張関係書類には、境大和が、昭和五〇年九月二一日から同月二四日の間同協会から東京に出張した旨の記載のあることが認められるが、他方、《証拠省略》によると、境大和は、右の出張予定日の同月二一日午後二時ころから午後四時ころまでの間、宮崎市内のひまわり荘で開催された宮崎県板硝子青年会議の発会式に出席していたことが認められるうえ、《証拠省略》によると、右出張命令簿及び旅費計算書に記載された出張期間は、必ずしも現実の出張期間と合致するとは言えないことも認められるので、単に右出張命令簿及び旅費計算書の記載から、境大和は同月二一日夜には東京に出張していて宮崎市内にはいなかったと断定することはできない。一方、境大和の証言によれば、同人はこの点に関し、右出張目的の建設業労働災害防止協会の理事会は東京都港区の産業安全会館で同月二二日午後零時から開催されることになっていたので、これに出席するためには同日の早朝飛行機で出発すれば間に合うことから、同日午前七時五〇分ころ宮崎空港発東京行の飛行機で上京した旨供述しているところ、《証拠省略》によると、昭和五〇年九月の宮崎・東京間の全日空の飛行機便には、宮崎空港発午前七時五〇分・東京着午前九時二五分の飛行機便があることが認められ、境大和が同月二二日の右飛行機便で上京すれば、同日午後零時から東京都港区の産業安全会館で開催される予定の右理事会に出席することは充分可能であるから、右の境大和の証言は措信でき、同人は同月二一日夜にはまだ東京に出張していなかったものと認めてさしつかえない。

(3) 次に、弁護人ら主張の被告人方での誕生パーティーの関係についてみるに、《証拠省略》によると、確かに、昭和五〇年九月二一日午後七時ころから、知事公舎私邸の被告人方において、被告人の長女A子(昭和一七年九月二一日生)と孫のB子(昭和四七年九月二一日生)の誕生パーティーが開かれ、被告人もこれに参加していたことが認められる。しかし、右誕生パーティーが何時ころまで続いたかが問題であるので、以下この点について検討する。

なるほど、右杉山祥子及び黒木サエ子の各証言並びに黒木サエ子の検察官に対する昭和五四年六月二〇日付供述調書によると、この両名は、右誕生パーティーは同日午後一一時ころまで続いていた旨供述しているのであるが、右両名の各供述は何ら特別の根拠もなくただ漠然と多分午後一一時ころまで続いていたと思うというにすぎず、数年前の出来事に関する時間の記憶がはたしてどれだけ正確であるか疑問があるうえ、孫のB子は当時三歳の幼児にすぎず、同席していた孫のC子は僅か生後二か月であったことも考慮すると、同児らを混じえて午後一一時という深夜にまで及んで右誕生パーティーが続けられていたということにも常識上疑問があり、右両名の供述によって、右誕生パーティーが同日午後一一時こるまで続いたとは俄かに認め難いところ、却って前掲の右録音テープの録音内容からすると、右誕生パーティーは遅くとも同日午後九時三〇分ころまでには既に終了していたものと推認される。即ち、弁護人らは、右録音テープには右誕生パーティーの状況が同日午後七時ころから午後九時三〇分ころまで録音されていると主張するのであるが、右録音テープの録音内容を仔細に検討してみると、右録音テープには、右誕生パーティーの状況が同日午後七時ころから午後八時ころまでにかけて録音されていることは、その録音内容自体から明瞭に認めることができるものの、弁護人らが同じく右誕生パーティーの状況を録音したものであると指摘するそれ以降の録音内容に関しては、僅か二場面が断片的にしかも数秒間録音されているにすぎず、その録音内容自体からはそれらが右誕生パーティーの状況を録音したものであると認められず、その録音状況からすると、むしろそれらは右誕生パーティー終了後に録音されたものであると推認される。つまり、被告人は、当公判廷において、後の思い出のために右誕生パーティーの状況を録音した旨供述しているのであるが、午後七時ころから午後八時ころまでの間は、右誕生パーティーの状況がかなり詳しく長時間にわたって録音されており、被告人の右意図にそった録音と認められるが、これと比較してそれ以降は、前記のとおり僅か二場面が断片的にしかも数秒間しか録音されていないのであって、被告人の右意図からすると、右誕生パーティーの状況を録音したものと認めることはできず、その最後の二場面は被告人が右意図のもとに録音したものというより、それ以外の理由で録音されたものとしか考えられないのであり、しかも、その最後の二場面以降は、未だ録音テープが残っているにも拘らず全く何も録音されずに残されているのであって、被告人の右意図からすると、それ以降も右誕生パーティーが続いていれば当然その後の状況も録音されているはずであるから、以上のことは、取りも直さず、右最後の二場面のころには既に右誕生パーティーが終了していたことを示していると考えられる。従って、右録音テープの録音状況から右誕生パーティーの終了時刻を推認すれば、前記新聞の写六枚との関係から、右録音の最後の場面に登場するテレビニュース音が同日午後九時三〇分から放送されたNHKのテレビニュースと考えられるので、結局、遅くとも同日午後九時三〇分以前には右誕生パーティーは終了していたと推認されるのである。

右のように、同日被告人方で開かれていた右誕生パーティーは、遅くとも同日午後九時三〇分以前には既に終了していたものと認められるので、同日午後九時ころから午後一〇時ころまでの間に宮崎県知事公舎で本件三〇〇〇万円を被告人に渡したという境大和の証言は、右誕生パーティーの開催の事実と矛盾しない。

以上のとおりで、弁護人らの右主張によっても、境大和の証言の信用性は左右されず、被告人の弁解が理由付けられない。

三  本件告発状記載の犯罪事実と境大和の証言の相違

(1) 弁護人らは、本件告発状記載の犯罪事実と境大和の証言はその贈賄の年度と請託内容において異なっているところ、本件告発状は弁護士である池田治が境大和から事情聴取して作成したはずであるから、このように矛盾した供述をする境大和の証言は全く措信できないと主張するので検討する。

(2) 確かに本件告発状記載の犯罪事実によると、その贈賄の年度は昭和五一年に、その請託内容は宮崎県発注の川島トンネル工事と平底トンネル工事の両工事を松本組が受注できるよう便宜を図ってもらいたいこととなっていて、この二点で第一の一記載の境大和の証言と明らかに異なっていることが認められるところ、《証拠省略》によると、池田治が境大和から本件の告発を依頼され同人から本件について説明を受けた際は、同人は本件について一応その証言と同様の説明をしていたこと、しかし同人の説明は要領を得なかったうえ、池田治には十分な調査時間も調査手段もなかったため、本件について必ずしも正確な事実関係を把握できない状態であったこと、そして池田治の調査の結果川島トンネル工事を松本組が落札したのは昭和五一年一一月であることが判明し、池田治は、右川島トンネル工事の受注のために、その落札の日より一年以上も前から贈賄するのは不自然であると思ったことから、その贈賄の年度は昭和五一年であると考えたこと、これに対し境大和は最後まで昭和五〇年であると主張していたが、池田治はその考えを変えなかったこと、また、池田治は、境大和が本件贈賄の結果松本組が川島・平底両トンネル工事を受注できたと盛んに言うため、その請託内容の主眼は両トンネル工事を松本組が落札することにあると考えたこと、そして、池田治は、以上の考えに基づいて本件告発状を作成したが、検察庁に本件告発状を提出する際、その贈賄の年度について自信がなかったため検察官に昭和五〇年であるかも知れないと言っていたこと等の事実が認められ、以上によれば、本件告発状記載の犯罪事実中の贈賄の年度と請託内容が右のようになったのは、専ら池田治の誤解に原因があるのであって、境大和が池田治にそのように供述したことに原因があるのではないことが認められる。もっとも、弁護人らは、池田治は弁護士なのであるから、境大和からそのようなあやふやな事情聴取をするはずがないと主張するが、《証拠省略》を総合すると、池田治もまた後記四で述べるような本件の告発問題を利用して被告人に昭和五四年四月の知事選挙立候補を断念させようとする動きに加担していたもので、同人は本件告発問題によって被告人に手痛い政治的損失を与えることに主眼を置き、そのため本件告発の時期を画していたふしが窺われるのであり、このことから、池田治は本件について正確な事実関係を調査することには余り意を用いていなかったとも考えられ、同人が本件について余り緻密な事実調査を行なわなかったことも理解できるのである。

従って、境大和が本件告発状作成時に池田治に対し、前記の境大和の証言と矛盾した内容の供述をしていたとは認められず、弁護人の右主張によっても、境大和の証言の信用性は左右されない。

四  本件告発経過と境大和の立場

(1) 弁護人らは、境大和は、昭和五四年施行の宮崎県知事選挙の被告人の対立候補であった小谷政一候補を右知事選に当選させるため、同人支持派の人達とともに、本件告発を利用して被告人に右知事選挙の立候補を断念させようと種々画策した者であるから、境大和の証言は信用できないと主張する。

(2) なるほど、《証拠省略》によると、境大和が、昭和五三年五月一六日宮崎県建設業協会会長選挙に敗れ、長年就任してきた右協会会長の座を降りたこと、同人は、右は被告人の差金によるものと邪推して憤激し、そのことから被告人を宮崎県知事の座から引摺り降ろそうと考えたこと、そして、右境大和は、遅くとも昭和五三年暮れころまでには、小谷政一候補を支持する江藤隆美や小谷政一候補の確認団体である宮崎県政刷新連盟に属する日高安壮らに本件告発事実を打ち明け、更に、同人らとともに、本件告発事実を利用して小谷政一候補の選挙戦を有利に展開しようと画策していたこと、一方、江藤隆美は、翌五四年一月六日被告人を東京のヒルトンホテルに呼びつけ、被告人に右知事選挙の立候補を断念しなければ本件の収賄容疑で告発すると強談し、被告人に右知事選挙の立候補を断念するよう強く迫ったこと、しかし、被告人は一向に右知事選挙の立候補を断念しようとしなかったため、境大和は、弁護士の池田治に依頼して本件告発の準備を進めたが、その間の昭和五四年一月二八日及び同月三〇日の両日東京の帝国ホテルで被告人の依頼を受けた黒木重男と本件告発について話し合い、被告人の右知事選挙の立候補断念を条件に本件告発を取り止めることとしたこと、しかし結局最後まで被告人が右知事選挙の立候補を断念しようとしないため、昭和五四年二月五日境大和の依頼を受けた池田治が自身の名義で本件告発に踏み切ったこと等の事実が認められ、以上によると、境大和は、被告人を宮崎県知事の座から引摺り降ろそうと考え、その対立候補の小谷政一候補支持派の人達とともに、本件告発を利用して被告人に右知事選挙の立候補を断念させようと種々画策してきた人物であることは十分認められる。

しかしながら、前記第二で検討したところから明らかなように、境大和の本件公訴事実に関する証言は、十分措信でき、右認定のような同人の立場を考慮しても、同人が被告人を宮崎県知事の座から引摺り降ろすため本件公訴事実にそう事実を捏造して証言したものとは、およそ認められないのであって、同人の本件公訴事実に関する証言の信用性は揺るがないところである。

第五松本汎司の供述の信用性について

松本汎司は、捜査・公判段階を通じ一貫してただ本件公訴事実を否定する供述をしているが、その供述自体から明らかなように同人の供述は境大和に対する悪意にみち、その供述態度には全く真実を述べようとする気持が見受けられないばかりか、前記第二の二で検討したところから明らかなように、松本汎司は、昭和五〇年当時境大和とかなり親しい間柄にあったことさえ否定するなど、明白な事実についてまで平気で否認する内容の供述をしており、これらのその供述態度並びに供述内容をみると、松本汎司の捜査・公判段階を通じての本件公訴事実を否定する供述は全く措信できないと言う他ない。

第六結論

以上の説示から明らかなように、本件公訴事実に関する境大和の証言は充分措信でき、これに反する被告人及び松本汎司の供述は全く措信できず、境大和の証言を中心として前掲の関係各証拠によれば、判示の罪となるべき事実は充分認定することができる。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、行為時においては昭和五五年法律第三〇号による改正前の刑法一九七条一項後段に、裁判時においては右改正後の同法一九七条一項後段に該当するが、右は犯罪後の法令により刑の変更があったときにあたるから同法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、被告人が判示犯行によって収受した賄賂は没収することができないので、同法一九七条の五後段によりその価額三〇〇〇万円を被告人から追徴することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(量刑の事情)

被告人の本件犯行は、先ず収受した賄賂が三〇〇〇万円という地方公共団体段階の収賄事件としては稀な多額の現金であり、しかも、被告人は、当時親交のあった宮崎県建設業協会会長の境大和の仲介であったにしても、最も利権に結びつき易い宮崎県出入りの土木建築業者から前記認定のような請託のもとにこの多額の賄賂をあまりにも躊躇なく安易に収受した点において、誠に重大で悪質な収賄事犯である。そして、前記請託にかかる川島トンネル工事は、宮崎県にとって、総工事費が四億五〇〇〇万円余り(予定価格)にものぼる大工事であったし、また、被告人は、本件収賄の結果、松本汎司からその弱味につけ込まれたとはいえ、前記のように平底トンネル工事に関し、その入札参加者の指名について宮崎県土木部事務当局の方針に反してまで同人経営の松本組のために種々便宜を与えたのであって、これらの点からも被告人の刑事責任は重大である。

更に、被告人の本件犯行は、宮崎県知事として同県内地方公務員の最高の地位にあった者の収賄事犯であるだけに、同県民の地方自治行政の公正に対する信頼を著しく失墜させたのみならず、被告人を信頼して多年にわたり被告人に県政を委ねてきた同県民に対する著しい背信行為であって、被告人の刑事責任は厳しく追求されて当然である。

従って、被告人の本件犯行が贈賄者側から誘発されたものであること、被告人が多年にわたり宮崎県知事として同県の発展のために尽してきたこと、また、被告人は本件起訴前に自からその知事の地位を辞したこと等被告人に有利な事情を考慮しても、被告人の本件犯行については主文掲記の懲役三年の実刑が相当と判断した次第である。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 米田俊昭 裁判官 田中正人 栃木力)

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